DELUCAさんと必然性(DEAN & DELUCAのルーツを調べてみて)
1970年代からのDEAN & DELUCA
先日、渋谷ヒカリエの木桶イベントで、DEAN & DELUCAの宮嶋真志さんに登壇いただくにあたり、DEAN & DELUCAのルーツを調べていました。
始まりは1970年代のニューヨーク。もともとチーズ屋をやっていたDELUCAさんが、まわりの誰も使っていない調味料や食材を並べようとした——オリーブオイル、バルサミコ。ヨーロッパの、それも「ローカルに、ローカルに」とたどっていく。そこに、本物を探して、というニュアンスを勝手に受け取りました。
なぜ「地方」が「本物」になるのか
でも、どうして「地方に行く」ことが「本物を求める」ことになるのか。しばらく考えて、ふと浮かんできたのは「必然性」という言葉でした。
その土地に暮らし、その土地でものを作っている人にとっては、食文化そのものが生活の一部になっている。外に売るために作っていたわけではない、そんな感じです。
たとえば、その時代に魚醤を作っている人に「どうして魚醤を作っているの?」と尋ねたら、「当たり前でしょ」という顔をされる気がするんです。地元で魚がたくさん獲れる。余ってしまうから、魚醤にする。彼らにとっての当たり前が、よその土地から見ると当たり前じゃない。それが、おもしろい。
一方、最近感じるのは、マーケティングの上手な人ほど、きれいな物語を作り出せるような気もします。耳障りのいい言葉をいくつか組み合わせて、いいものづくりの背景を演出するイメージです。でも、さっきの「地方に本物がある」という話は、飾って作ったものではなかったはずで、DELUCAさんがその地域や人にとっての当たり前を探していった…という話のように感じるのです。
それでも、必然性を見つける
その点でいうと、いまの生産者の日常の暮らしは、同じようなものを食べ、同じように買い物をして、同じように夕飯を作る。昔ほど、地域の食文化が生活の当たり前ではなくなっている、とも感じます。すると、なおさら大事になるのが——どうして自分はこの醤油を作るのか、という必然性を、どこまで深掘りするかということのような気がします。
先祖代々の家業を、次の世代へ渡していく。地元で大豆を育てている人と知り合って、この大豆だからこう仕込みたい、と思う。あるいは、こういうお客さんにこそ届けたいから、こう作る。どれも、その人なりの必然性。
よいつくり手は、自分の言葉で話ができる人——というのが、私の中ですっきり落ちています。たぶんこれも、同じことなのだと思います。自分の言葉は、自分の必然性からしか出てこない。そんな気が、しています。
2026.07.05
その土地の”当たり前”から生まれた一本
42. いしり(魚醤)/カネイシ(石川・能登)
店の前に海が広がる蔵で、余るほど獲れる魚から生まれた魚醤。「なぜ作るのか」と問う前に、そこにあった味です。
https://store.s-shoyu.com/products/sy042
“木桶を残す”という必然性から生まれた一本
43. 鶴醤/ヤマロク醤油(香川・小豆島)
「木桶がなくなる」という危機感から木桶職人復活プロジェクトを始めた山本康夫さんの蔵。二年の濃口にもろみを足してさらに二年、四年熟成の濃厚な再仕込です。自分で見つけた必然性が、そのまま味の濃さになっています。
https://store.s-shoyu.com/products/sy043

